2018/12/13

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やってしまいがちな、毎回マジレス
ネットを見ていると、自称「コミュ障」の人の発言からは、真面目で、礼儀正しく、悪に憤慨し、善を尊び、正義感に満ち溢れていることが伝わってきます。
話しかければ全力で真面目に回答し、内容は常に品行方正です。
悪いところなんかないはずです。
ところが、この、「毎回、マジレス」は、しばしば鬱陶しがられる原因になります。
仕事から離れて、ノンストレスで気楽な会話を求めているのに毎回真剣な会話のレスポンスが続くと、相手はだんだん疲れてきて、その会話がうっとうしく感じます。
相手は冗談やデータ、軽いノリで言っただけなのに、そんな真剣に受け取られても・・・と、冗談も言えないような気持ちになるからです。
なお、逆に、毎回ふざけすぎも鬱陶しがられので。
適度に。
人とのやりとりは、「バランス」の見極めが大変で本当に難しいです。
真面目すぎると、意外と嫌われます。
他の要素も組み合わさって、嫌われるのかもしれませんが・・・
真面目すぎることの、何が一体いけないのか
生まじめさと言うのは、人から面倒がられるものです。なぜですかね?
一見いいことに見えるのに。
まじめさを突き詰めていくと、そこには1本スジの通った、自分なりの正義が立っています。
正義は厄介なもので、人の行動や言動に、私は正しいのだから〇〇をしてもいいと言うエクスキューズをつけてしまいます。
結果として、正しいことを主張しているつもりでも、相手には「思想の押し付け」のようになってしまい、鬱陶しいと迷惑がられてしまうのです。
気をつけないと無意識にやってしまいがちなので注意が必要です。
また、真面目な人は視野が狭くなりがちで、相手のためになるからと独善的に走ってしまうこともあります。
正義は時に人を傷つけ、自分をも傷つけるものなのです。
正義を通した代償を支払うことが、わかっていれば良いのですが・・・。
かといって、中立を気取るのも鼻につくものです。
何か問題が起こったとき、当事者にならずに傍観者あるいは審判者の立場をとることを指しています。
個人的な意見は表明せず、どちらにも賛成でも反対でもない。あくまで客観的に相手にも相手の立場がありますから、譲り合っては・・・?
などと、普遍的な発言をし、場合によっては圧倒的に優勢な意見に審判の旗を掲げます。
腹の中は、「めんどくさい・・・関わりたくない・・・」です。
問題にもよりますが、下手を打つと、熱くなっている当事者同士から、「日和見野郎」と吊るし上げられることもあります。
中立は安全ではありますが、何をしてもなにがしかの面倒があるので、そのうち人付き合いそのものがストレスになってきます。
じゃあ、どうすればいいんだよ!となりますよね。
本当にその通りです。
人付き合いはどう転んでも面倒なものなのです。